枯れない無花果〜閉ざしてしまった篭

(ren)

『枯れない無花果(いちじく)~閉ざしてしまった篭』。
『手紙的小説』と言えばいいのか?この作品に出逢った時に衝撃が走りました。
荒削りの作品ではありますが、著者の『泥』や『毒』が文字一つ一つの『言の葉』に詰まっています。

【慙愧(ザンキ)】

第 10回

2014.11.15更新

銭湯で、昼風呂を済ませた父が、
玄関から私に、めずらしく声をかけました。

「おいで、ジュース飲みにいこう」

母を見ると、

「いっておいで」と、笑顔が返ってきました。

黙って、父の後を歩き、車に乗り、少しドライブしました。
会話のない静かなドライブでした。
横目で父を、ちらっと見ると、
何度も鼻をならして、咳払いをしていました。
父が緊張しているときは、いつもこれをします。

大きな喫茶店のガレージに車を停めて、父の後をついて行くと、
白いドアを開けて、私に入るように促しました。
ドアをくぐると、軽快な音楽と人のざわめきに混ざって、
「いらっしゃいませ」と、明るい声がしました。
広い店内には、光沢のある茶色い木のテーブルと椅子が並んでいて、
左側に、木のカウンターがありました。
右側の壁は、大きなガラス張りになっていて、
ガラスの外は、屋根が無く塀があるだけで、
陽が差し込む部屋になっています。
その部屋には、ハタキのような葉をつけた、ノッポの鉢植えが置かれていて、
木の傍には、白い丸テーブルと白いイスが置いてありました。

父は、ガラスの外の部屋を選び、
白いイスに私を座らせました。
間もなく、エプロンを着けたおねえさんが、やってきました。

「お子さん?」

おねえさんは、父に話しかけ、父は「ああ」と応えました。
華やかな店内と、父と出かけている事が落ち着かなくて、
私は辺りを見まわしていました。
注文を済ませた父は、いつになく私に話しかけてきました。
私は照れながら、足を前後に振って、短い返事をしました。
差し込む陽の光がテーブルに反射して、
父の吐く煙草の煙が白く光に泳いで、眩しく綺麗でした。
お母さんも来ればよかったのに、と、思いました。

しばらくすると、
「おまちどうさま」と声がして、
テーブルの上に、父のコーヒーと、
私の前に、グラスに入った青いような緑のような、
動く飲み物が置かれました。
父がストローをグラスに指してくれると、
それは、カランカランと、音をたてて光りました。
テーブルの方に体をずらして、緊張しながらストローに口を付け、
少し吸い上げると、それは強く舌を刺激しました。
驚いて、父の顔を見ると、笑っています。
安心して、もう少し吸い上げると、
甘くて冷たい飲み物が口の中を刺激して、嬉しくなりました。
「かわいいね」と、おねえさんが父に言いました。
飲み物に夢中になっていると、
父は飲みかけのコーヒーと煙草を持って、立ち上がり、

「ゆっくり飲んでなさい。」

そう言いながら、ひとり、中のカウンター席へ移動しました。
私は時々、カウンターの父を確認しながら、
飲み物と陽の光を楽しみました。
帰り道、父は上機嫌でした。
めったに話をしない父が、笑顔で声をかけてくれる事が、
さっきの飲み物のように、私を甘く刺激しました。

帰宅してすぐ、母に白いテーブルと飲み物の話をしました。
母は「うん、うん、」と笑顔で聞いていました。
父は、それから何度か、そこへ私を連れて行きました。
父と二人だけの、少しのドライブと甘い飲み物、
父の笑顔、帰宅して私の話を聞く母の笑顔。

梅雨のある日、母とふたり保育園からアパートへ帰ると、
ドアの前に[恐そうなおじさん]と[おねえさん]が立っていました。
立ったまま、おじさんと母は少し言葉を交わした後、私に促しました。

「遊びに行ってらっしゃい」

走って行こうとすると、

「ちゃんと、お帽子とカバンを持って入ってからにしなさい。」

いつもと変わらない様子で、母が言いました。

向かいの棟にある、母の友人宅に行き、
遊んでいる間も、母が気になって、合間に窓からお家の様子を見たけれど、
窓のカーテンはずっと閉められたままでした。

部屋のなかでは、重い時間が流れていました。
おじさんは、[おねえさん]の、お腹に父の子供が宿っていると、母に伝えました。
そして母に、父と別れるよう迫りました。
母は静かに[おねえさん]を見て聞きました。

「主人の子供ですか?」
「はい。」
二人の会話を妨げるように、おじさんは、
「俺は昨日、刑務所から出所したばかりでね。」

「貴方の事情などは、私には関係ない事です。」
母が、返すと、
おじさんは、父をこの場へ呼べと声を荒げました。
「少しお待ち下さい」
母は管理人室の横にある公衆電話から、父のポケットベルを鳴らし、
客が待っているので直ぐに帰宅するよう伝言しました。

父は間もなく帰ってきました。
母と[おねえさん]を前に、おじさんが父に聞きました。
“どちらをとるのか”

母は、その時、心の中で願っていました。
・・・『この娘さんを選びますように』・・・
その方が、自分のペースで話が進められる。

期待通り、父が選んだのは、母ではありませんでした。
はっきりと、[おねえさん]の名前を口にしました。

誰も言葉を出さず、
ただ、それぞれの頭の中に、それぞれの〈思いと計算〉の時間が流れ、
それを察した母は、[おねえさん]に向き、

「主人の気持ちは判りました。ただ、貴女自身はどうですか?
主人が貴女を選んだのは事実です。
だから、貴女が主人と同じ気持ちなら、私は何も言うことはありません。
すぐにでも別れましょう。ただ、私にも娘がいます。
娘にとっては父親です。主人が貴女に、
どんな話をしていたかは判りませんが、この人はこんな人です。
この人とやっていく事が貴女にできますか?
貴女の本当の気持ちを聞かせて下さい。貴女は主人と居て幸せですか? 
貴女が今日、一人で、ここに来られていたなら、
こんな事は聞かなかったかもしれません。
貴女が今、必要なのは主人ではなく他のものではないですか?」

と、静かに言いました。
それを待っていたように、おじさんが言いました。
「わかった、奥さん大したもんだ。二十万用意してもらえますか。」
母は[おねえさん]を見ました。[おねえさん]は黙っていました。
父も黙っていました。

もう一度、母は[おねえさん]を真っすぐ見て、聞きました。
「それが、貴女の本当の気持ちですか?」
[おねえさん]は、頷きました。
それを確認した母は、おじさんと[おねえさん]に伝えました。

「分かりました。二十万、近々用意します。」

二人が帰った後、父は安堵の溜息をついて、ビールを飲み始めました。
母は、私を迎えに来て、夕食の支度をし、三人で食事をしました。
母は、ひと言も言葉を出しませんでした。
さっきの二人が来てから、母の様子が違っています。
私は、せっかく父が、珍しく夕食を共にしているのに、
会話のない空気が居たたまれなくて、声をだしました。

「ワイキキのおねえさん、おとうさんにごよう?」

その瞬間、母の顔色が変わりました。
父は答えませんでした。

私は「しまった」と思いました。

父の事も私の事も、何も見ていない母の、その目を見て、
[おねえさん]が、あの喫茶店の人であることを、
母は知らなかったのだと感じました。
口にしてはならない事を、言ってしまったのだと、喉が緊張しました。
喫茶店は悪い所なのだと思いました。
そして、父が何か悪いことを、ワイキキでしていたと思いました。
父は、きっと悪いお仕事をしている。
私は父に連れられ、ジュースを楽しみ、父と同じように、
何か悪いことをして、母に嘘をついていた様な気持ちになりました。

その夜、また眠れなくて目を開けると、
横には父しか居ませんでした。
母を探すと、真っ暗な台所に母らしき影がありました。
目を凝らすと、丸まった背中が見えました。
全く動かない、その背中には〈絶望〉しかありませんでした。

いつものように、
「おかあさん」と声をかけることさえも許されない様な、冷たい背中。

今、母は、私の事を、父の〈仲間〉だと思っているに違いないと感じました。
あんなに楽しかった喫茶店での時間が、
深い罪悪感に変わり、あの時間を楽しんでいた自分が、
とても恥ずかしく、そして、恥ずかしさに絶えきれず、
私を連れて行った父を、恨みました。

母の背中を見ながら、私は声をたてないように泣きました。
泣いていることが判ってしまったら、母は去って行くと感じたからです。
これからは何があっても、私は母の身方になろうと思いました。

父は会社に借金を申し出、二十万円は支払われました。
子供が出来ていたことが、本当なのか嘘なのか、
その二十万円が誰の手に渡ったのか、母も知りません。
ただ、その後も、何度か[おねえさん]と父が車に乗っているところを、私は見ています。