枯れない無花果〜閉ざしてしまった篭

(ren)

『枯れない無花果(いちじく)~閉ざしてしまった篭』。
『手紙的小説』と言えばいいのか?この作品に出逢った時に衝撃が走りました。
荒削りの作品ではありますが、著者の『泥』や『毒』が文字一つ一つの『言の葉』に詰まっています。

導 火

第 3回

2013.12.15更新


夏の朝、葵に陣痛が始まった。
出産の準備をして、家から助産院まで、大きな墓地を抜け、二十分ほどの道のりだが、
途中、何度も休みながら、ひとりで歩いて行った。

「足腰の影響で痛みが強く出ているみたいだけど、陣痛としては、まだ弱い。もっと強い痛みが出て、その間隔が短くなったら、おいで。」

ああ、またあの道を帰るのか。

家についても、堪えられない痛みはなかったが、腹部に加え、背中から足への鈍痛が続く。立つと眩暈がする。
少し眠っておきたかったが、体を横にすると鈍痛が増し、
壁に座布団を重ね、凭れかかって座り、呼吸を整えた。

夕食の支度にかかる時間になった。家には誰も居ない。
皆が帰ってくるまでに準備したい。
葵は立ち上がると、土間の台所に降り、米をといだ。

長屋から小道を抜けた路地には、誰が植えたでもないグミの木や、枇杷の木、イチジクの木が、手入れされることなく茂っていて、その夏はいっそう大きな葉をつけていた。
葵は、イチジクの葉を数枚摘み取り、土間の端に大きな金盥を置いて、葉と沸かした湯を入れ、腰湯をした。
そこへ姑が、帰ってきた。
「イチジクの腰湯は効く。明日か。」
「明日ですか、御母さん。」
葵が問いかけると、姑は葵を見ずに、自室に入り襖を閉めた。

その日の明け方から、痛みの質が変わった。
激痛で思わず息を止めてしまう。助産院へ行かなければ。
空が明るくなるのを待って、荷物を持ち、寝静まっている皆を起こさないように、そっと外へ出て鍵をかけた。そしてまた同じ道を歩いた。
寺の中、琵琶の木の側にある飾り石に、腰をかけた。
琵琶の実を見ながら、昨日から何も食べてないことに気付いた。
今日は朝ごはんの準備ができなかった。
そういえば、昨夜また、雄一は帰って来なかったな。

趣味のサークルで出会った雄一は、物静かで、他のメンバーとは違う雰囲気を持っていた。笑う時も大きな声を出さず、サークル内での討論の時も、静かに他の者の意見を聞き、
どこか頼りなげで、気がつくと、そこから居なくなっていることも度々あった。
サークル結成当初から居る葵とは違い、新参者の雄一が遠慮しているのかもしれないと、気にかけるようになった。
メンバーたちは、
“何を考えているのか、よく分からない奴”
と、雄一を避けていた。
葵は、サークルメンバーに、雄一の事を聞いてみた。
「雄一は絵描きで、絵の腕はかなり良いよ。油絵見たことある。友禅職のメンバーは多いから、手描き友禅の職に就いているのかと思って、組合に入らないかって誘ったら、絵は仕事にしたくないってさ、趣味で描いていて、仕事にはしないって。お高くとまっているよなぁ。」
「絵を生業にするもしないも、本人が選ぶことで、それが理由で避けるって、このサークルの意図からズレてない?」
「雄一さぁ、危ないんだよな。学生の時の、スパイク事件知らない?」
「何、スパイク事件って。」
「野球部、荒れてたのは知ってる? 雄一って、ああだから、絡まれたわけよ、野球部に。逆に野球部全員が雄一にやられて、十一人、手をつかせて土下座させて、雄一、野球部のスパイク履いて、手の上を歩いたんだよな。一人一人、全員の。結構、問題になったけど、先に手を出したのは野球部だから、雄一はお咎めなしだったけど。卒業してからも、チョコチョコ喧嘩してるって、噂聞くし、血が上ると、危ないんだよな。」
普段の雄一から、喧嘩という言葉も想像できなければ、危ないという印象も持てなかった。

仕事を終え、帰宅時に葵が商店街を歩いていると、雄一が四つ角の向こうに立っているのが見えた。
近くまで行くと、質屋の中をじっと見つめている。

「気になるものでも、ある?」

葵が声をかけると、雄一は、目じりをいっぱいに下げて微笑み、

「ステレオ。木製の。」
そう言ってまた、ステレオに目を移した。
並んでガラスの中を覗くと、大型で厚みのある木製のステレオが、ショーケースから、
はみ出るような存在感で置いてあった。

「新品?値段がついてないけど?」

「さぁ。」

「買うの?」

雄一は答えず、ステレオから目を離さなかった。

「欲しいの?」

「レコード、持ってないから。」

葵は雄一の手を取って、中に入った。
葵は、ステレオの値段を店主に聞き、月賦で支払う約束をして、店主に『売約済み』の札を貼らせた。

「毎月、払えるだけ私に返して。ステレオは先に雄一さんの家に運んでもらえば良いから。
レコードは、自分で買って。好きなのを。私にも聞かせてね。」

それが、付き合いの始まりだった。

一度もステレオの代金は、葵に渡されることはなかった。
レコードも、聞きに行ったことはなかった。
でも、喫茶店で、雄一の描いた絵を見せてもらった。素晴らしい風景画だった。